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ねえ、知ってた?『火垂るの墓』は「反戦映画じゃない」らしいよ
『火垂るの墓』って、一度は見たことある人がほとんどだと思う。「二度と見たくない、でも史上最高の映画」なんて言われてる、あの作品。
最近フランスで、公開から30年ぶりに劇場再上映されて、また話題になってるんだよね。
私、改めてこの映画について調べてたんだけど、けっこう衝撃的なことを知ったの。
監督の高畑勲さん本人が、インタビューや上映イベントで、「これは反戦映画ではない」って、何度も何度もはっきり言ってるんだよね。
今日はこの話を、女友達に話す感じでゆるく解説していきたいと思う。
まずはあらすじのおさらい
太平洋戦争末期の神戸。14歳の少年・清太と4歳の妹・節子は、空襲によって母親を亡くし、二人きりになってしまう。
最初は親戚のおばさんの家に身を寄せるんだけど、戦況の悪化とともに食糧事情が厳しくなり、二人はだんだん邪魔者扱いされるようになっていく。
耐えられなくなった清太は、節子を連れて防空壕での二人暮らしを始める。しかし食べ物は底をつき、節子は栄養失調で命を落とし、清太もその後、駅で一人息を引き取る。
物語は、幽霊になった清太のモノローグから始まる。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」
これだけ聞くと、完全に「戦争の悲惨さを訴える反戦映画」に思えるよね。私もずっとそう思ってた。
高畑監督が「反戦映画ではない」と言った理由
でも、監督本人の言葉を追っていくと、少し違う景色が見えてくるの。
高畑監督は、上映イベントでこう語っている。
「実は私は反戦のメッセージを伝えようということでこの映画を作ったわけではないのです」
さらに、2015年の神奈川新聞のインタビューでは、こんな風にも語っている。
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか」
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「為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです」
つまり高畑監督にとって「反戦映画」というのは、実際に戦争を止める実効性を持つものでなければならなくて、その厳しい基準に照らすと、『火垂るの墓』はそこに当てはまらない、という考え方なんだよね。
じゃあ、何のために作られた映画だったのか
高畑監督は原作を読んだとき、主人公の清太について、こんな印象を持ったんだって。
「『火垂るの墓』の清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない」
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「物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てないだろうか」
つまりこの映画は、「戦争の悲惨さを伝える」ことよりも、「現代的な感覚を持った少年を、戦争という極限状態に置いたら何が起きるか」を描くことが、本来の目的だったんだよね。
高畑監督は、自分が生きた戦時中の記憶をもとにではなく、あくまで「現代の若い世代に共感してもらう」ことを目指してこの作品を作った。実際、監督自身がこう語っている。
「私は、この物語が若い人々にはよくわかってもらえると確信していたのです。それは、この物語の主人公、清太の生き方に今の若い人が共感できるはずだと思ったからです」
清太とおばさん、どっちが悪いのか問題
『火垂るの墓』を語るとき、必ずと言っていいほど話題になるのが、「清太とおばさん、どっちが悪いのか」っていう論争なんだよね。
清太たちを冷たくあしらったおばさんを「悪者」として見る人もいれば、二人だけで暮らすことにこだわった清太の頑固さやプライドを問題視する人もいる。
この論争について、高畑監督自身の見解が、実はかなり明確に残っているの。
「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう」
つまり監督の見方では、清太がおばさんの家を出て二人だけで暮らすことを選んだのは、単に「おばさんが意地悪だったから仕方なく」だけではなくて、清太自身の意志、プライド、そして周囲との共生を拒んだ姿勢が、大きく関わっている、ということなんだよね。
でも、それを「清太の自己責任」と言い切っていいのか
ここで、多くの人が誤解しがちなポイントがあると思っていて。
「監督が清太の選択を批判的に見ている」からといって、それが「清太の自己責任だ」という単純な結論にはならないの。
むしろ高畑監督は、こう続けている。
「しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」
これ、私、すごく重要な発言だと思うんだよね。
今の私たちが「清太はかわいそう、おばさんはひどい」と感じるのは、今の時代の価値観がそう感じさせているだけかもしれない。時代の空気が変われば、逆に清太のほうが強く非難される未来だってあり得る。
高畑監督は、清太を単純な被害者としても、単純な自己責任としても描いていない。両方の見方が成立してしまう、その曖昧さそのものを、この映画に込めているように思う。
心理学的に見る、清太が陥った構造
ここで、この構造を少し心理学的な視点からも考えてみたいんだよね。
社会心理学には「社会的孤立」という考え方がある。人は極限状態やストレスの強い状況に置かれたとき、本来なら周囲に助けを求めるべきなのに、プライドや羞恥心、あるいは「迷惑をかけたくない」という気持ちから、かえって周囲から孤立していってしまうことがあるの。
清太がとった行動は、まさにこの構造に近いと思う。頼れる大人(おばさん)が実際にそこにいたはずなのに、そこから離れ、妹と二人だけの世界に閉じこもってしまった。
これは戦争という極限状態だからこそ極端な形で表れているけれど、実は現代の私たちの中にも、似たような構造ってあると思う。誰かに頼ることが恥ずかしくて、一人で全部抱え込んでしまう感覚。
それでも、14歳の少年に全責任を負わせられるのか
ただ、ここで一つ、忘れちゃいけないことがあると思っていて。
清太は当時、まだ14歳の少年だったんだよね。極限状態の中で、大人でも判断を誤るようなことを、14歳の子どもの選択として「間違っていた」と断罪してしまうのは、正直かなり酷な話だと思う。
高畑監督自身も、「我々にそれを批判できるでしょうか」と、慎重に言葉を選んでいる。
だからこの映画が本当に伝えたかったのは、「清太が悪い」でも「清太は完全な被害者だ」でもなく、もっと静かな、こういう観察だったんじゃないかと思うの。
「人は悲惨な目に遭うと人情というものが働かなくなるということを伝える話だ」
これは高畑監督自身の言葉。清太も、おばさんも、それぞれの立場で、極限状態の中で少しずつ人情を失っていった。それこそが、この映画が本当に見せたかった、戦争という状況の恐ろしさなのかもしれない。
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ラストシーンに込められたもの
映画のラスト、清太と節子の幽霊が、山の上のベンチに座って、現代の神戸の街の明かりを見下ろすシーンがある。
二人はあの日からずっと、この街をさまよい続けている。
反戦映画かどうかという議論を超えて、この映画がこれほど長く、世界中の人の心に残り続けているのは、あの二人の魂が、今もどこかで私たちのすぐそばにいるような気がするからなんじゃないかな、と思う。
まとめ
- 高畑勲監督は『火垂るの墓』について、繰り返し「反戦映画ではない」と発言している
- 監督の意図は「戦争の悲惨さを伝える」ことよりも「現代的な感覚を持つ少年を極限状態に置いたらどうなるか」を描くことにあった
- 清太がおばさんの家を出た選択には、清太自身のプライドや周囲との共生を拒む姿勢が関わっているという見方を監督自身が示している
- しかし監督は同時に「時代が変われば清太が糾弾される未来もあり得る」と述べ、単純な自己責任論も否定している
- 清太の行動は社会心理学でいう「社会的孤立」の構造に近く、極限状態でプライドが人を孤立させていく普遍的な現象として読める
- それでも14歳の少年に全責任を負わせることの酷さも、監督自身が認めている
- 高畑監督が本当に伝えたかったのは「人は悲惨な目に遭うと人情が働かなくなる」という、静かで普遍的な観察だったのかもしれない
『火垂るの墓』をまだ「かわいそうな兄妹の反戦映画」としてしか見ていなかった人は、ぜひ高畑監督のこの視点を持って、もう一度見返してみてほしい。
きっと、あの兄妹の選択が、少し違って見えてくるはずだよ。
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